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 おれと優と大竹の3人は床清掃担当として、清掃会社の人達と挨拶を交わしてから建物の地下にある大きなスペースに移動した。そして、おおまかな手順の説明を受ける。
「最初に机と椅子を移動させろよ。で、ポリッシャーで洗った後、かっぱぎで洗剤を集めるから、その後で君らはモップで拭きあげてくれな。1番モップが粗拭き、2番モップが仕上げ拭きだから。乾かしてから最後にワックスを塗って完了だ」
 どうやらポリッシャーというのはブラシを電動で回転させて床を擦り、汚れや以前に塗ったワックスを床から剥がすための機器らしい。そばに大小2つの見たことのない機器が置いてあるから、多分、それだ。
 その機器を使う際に洗剤を床に流しているので【かっぱぎ】という先端がゴム製になっている箒、というか形状はトンボに似ている箒を使って洗剤を回収すると説明を受けた。そして、その後にモップで吹き上げるのが仕事のようだ。モップで1回だけ拭いたのでは全洗剤を回収できないので2回ほど拭くらしい。
「なるほど。これは優が言ったようにグラウンド整備に近いかもな」
 トンボでグラウンドをならすようなポーズでモップを使うのであれば似ていなくもない。さらに荒れたグラウンドだと一度だけトンボをかけても整備完了にならない時もあるから、その時は再びトンボかけをする。そうなれば床と地面の差はあれ、そっくりじゃないか。
 そう思っていると清掃会社の人が大竹と優にモップを手渡した。
「あれ? あの、自分は?」
 役割を与えられなかったおれが聞くと、
「ああ、君は大木と組んで2階の会議室をやってくれよな」
と、清掃会社の社長に指示された。
「よろしく、な」
 その声の方に顔を向けるとにこやかな顔をした男性―――大木と名乗った人がおれに向けて挨拶代わりに手を振った。
 おれが大木さんの立っているところに歩み寄る。大木さんは優と同じぐらいの体格で日焼けしたような頬をしていた。見た目は30歳前後ぐらいだろうか。おれ達、高校生の目で見るとオジサンにも見えた。目は少し厳しそうだけど、口元は温和そうに見えた。その大木さんが、
「ここは広いけど、上の会議室は広くないから2人でやるんだ」
と、言ってからキビキビとした動きで清掃用具が置いてある所に歩いて行き、かっぱぎ1本、塵取り1個、空の1斗缶、モップ2本を手にして、それらを全部、おれに渡した。そして大木さん本人は右手で小さい方のポリッシャーを担ぐように持ち、残った左手に扇風機を持って、
「さあ、行くぞ」
と、おれを引っ張るかのように床をキュッキュッと鳴らしながら率先して歩き出した。


 2階に上がって会議室前に到着すると一旦、持ってきたものをドアの横に置いた。そして、もう一度、自己紹介的に名前を名乗ると大木さんはポリッシャーの電源コードを準備しながら、
「君らは学生だろ。同じサークルなの?」
と、世間話のように聞いてきた。
「えっと…はい」
 おれはとりあえず肯いた。
『サークルって…盥さん、おれ達の身分を何て清掃会社に言っているんだ?』
 高校の部活を【サークル】と普通は呼ばない。もしかして、おれ達を大学生と告げているのだろうか。
 ただ、高校生だと清掃のアルバイトができないのであれば困るので、おれは曖昧にやり過ごそうとした。
「何のサークルなの?」
「野球です」
「へ〜、野球。だから体格が良いのかい。ポジションは?」
 大木さんは緊張気味のおれをほぐそうとしたのか、次々に言葉をかけてきた。
「えっと、ピッチャー…ですかね」
 専任というわけではないから語尾を濁してしまった。が、大木さんはそのことを気にすることなくドアを開けてポリッシャーを中に入れた。
「ピッチャーか。じゃあ、甲子園を目指していたの?」
「あ…いえ、今は軟式なので…」
 おれは思わず今のことを口に出してしまった。それでも大木さんは気がつかなかった。
「サークルじゃ硬球を使わないのか。まあ、そうだよな。危ないし」
 おれは黙って大木さんに続いて手にしている用具を会議室に持ち込んだ。
「それじゃ、始めよう。俺が床を磨くから、その後でかっぱいでくれな」
「かっぱぐ、ですか?」
「そう。これをこう使って残った洗剤を集めるんだ」
 先がゴムの箒を持った大木さんが作業のマネをしてみせてくれた。
「それで集めた洗剤を塵取りを使って掬い、1斗缶に回収して。そうしたらすぐにモップで拭くんだ」
「はい」
「ただ、2人でやるから一人二役でやってくれな」
「はい」
 おれは素直に肯いた。
「まあ、とにかく始めようか。やりながら覚えてくれよ」
 そう言った大木さんはポリッシャーのスイッチを入れた。機械音と共にブラシが回転し始めると大木さんは部屋の奥から洗い始めた。


 たかが掃除だと思っていたおれは目まぐるしく動き回っていた。ポリッシャーで洗った後をかっぱぎと塵取りを持って付いてまわって、汚水を回収したらモップをかける。その間に大木さんが先に進んでいるので、かっぱぎに持ち替えてその後を追いかける。それを繰り返しだけでなく、時々、
「もっと綺麗に拭けよ」
と、注意されて、もう一度モップで拭くということも繰り返した。
 ただ、マウンドでの全力投球中と違って会話ができないほどの集中は必要ないようで、時折、大木さんが話し掛けてくることに反応していた。
「何でこのアルバイトを選んだの?」
「いえ、これを選んだのは自分じゃないです」
 おれが答えると大木さんは機器を腰貯めに操作しながら、もうひとつ質問してきた。
「じゃあ、誰が選んだの?」
「みんなで決めました」
 部屋のドアまで到達した大木さんはポリッシャーのスイッチを切って、かっぱぎを手にした。
「俺がかっぱぐから七塚は拭いてくれ。で、反対しなかったのか? 汚れ仕事だろ。こういう仕事を嫌がる人間もいるけどな」
 おれも2本のモップを持ち替え、2度拭きしながら答えた。
「まあ、練習していれば汚れますし」
「そうかもしれないけど、大学生ならもっと割の良いアルバイトがあるだろ」
「そうですか?」
 手を止めて大木さんの話に耳を傾ける。すると、大木さんから即座に注意された。
「手を止めるなって」
「あ、はい、すみません」
 おれが手を動かし始めると大木さんは作業をしながら、また喋り始めた。
「テーマパークとか警備員とかパチンコ屋とか、いくらでもあるだろ」
「はあ…」
「七塚みたいな体格だと力仕事もあるだろうし、学生なら時間もあるだろ。夜間バイトなら時給も高くなる」
「それって、こうこ…」
 高校生でもできるのか、と聞きかけたおれは途中で口をつぐんだ。
「ん? 何だって?」
 聞き返されたおれは喋っても良さそうなことを言ってごまかした。
「いえ…みんなで同じアルバイトをしようとしたんです。野球をするのに必要なまとまったお金をみんなで稼ごうと。それでこれから始めてみようと」
 そう言うと大木さんは納得してくれたようだった。
「なるほど。俺もそうなんだ」
「…え? 野球をされているんですか?」
 大木さんの言葉におれの手が止まる。
「だから、手を止めるなって」
 再び注意を受けたおれは「すみません」と頭を下げてモップを動かす。すると大木さんは、
「いやいや、俺は野球じゃない。こうこがくだ」
と、言った。
「は?」
「考古学って知らないか?」
 2度言われて学問のことだと気がついた。
「単語としては知っていますが…考古学ってピラミッドや古墳を掘り起こしたりするやつですよね」
「おいおい、墓ばかりか。それじゃ盗掘しているような言い方だな」
「あ…す、すみません」
 あわてて頭を下げると大木さんは鼻を小さく鳴らした。
「ま、いいさ。日本じゃ、マイナーな学問だからな。それは自覚しているよ」
 同じようにマイナー球技をしているおれだけに大木さんの自虐的な言葉に黙り込んでしまった。
「で、考古学も金がかかる学問なんでな」
「えっと…そうなんですか」
 それだけ言うと大木さんは大仰に何度も点頭した。
「フィールドワーク主体でやっているとな」
 フィールドワークという言葉の内容をおれは知らないものの、語感で外に出て行う作業のことなんだろうと感じて、
「大変なんですか?」
と、聞いてみた。すると、大木さんは目を剥いて喋り始めた。
「ああ、日本国内のフィールドワークでも移動費、宿泊費、食費がかかるんだよ」
「はあ…」
 学問というなら大学とか研究機関とかが研究のための費用を出してくれるものじゃないのか、と思ったおれは生返事をした。
「自分でお金を出すんですか?」
「まあ、俺みたいな駆け出しは結構、自費もあるな。まあ、運良く研究が認められたり自分のやりたい研究以外でもやったりする奴は違うけどね」
「運…ですか…? 学問ですよね?」
 おれが知っている学問は1つの問題に必ず1つの答えがあるものだ。だから、学問とは答えにたどり着く手段を覚えることだと思っていて、運の入り込む隙間は小さいものだと思っていた。せいぜい学校のテスト問題にヤマを張っていた時に当たるか当たらないかぐらいだと思っていた。それは違っていたのか。
「まあ、あれだ。著名な研究者ならともかく…な。研究費をもらうには結果がないと。それに色々な審査があるんだ」
 学問の世界での【結果】が何であるのかをおれは知らなかった。だけど、審査があるなら何らかの指標があるに違いない。
 そうだとすると、どうやらプロスポーツの世界だけではなく、学問の世界も似たような世界になっているだろうか。
 スポーツの世界…特に球技だと結果や能力を色々な数値で表現することができる。そして、その数値が高いトップクラスが様々なものを得て、1軍レギュラー・1軍控え・2軍・3軍…の順に下位の者ほど満足なものが得られなくなり、それにも含まれない人間にはトップクラスと比べると雀の涙のようなものしか得られなくなる。もしかしたら何ももらえない者もいるかもしれない。
 だから結果を出そうと日々、選手は練習するわけだ。だけど、練習して上手になっても結果がついてくるとは限らない。そして、そもそも試合に使ってもらえなければ結果を残しようがない。監督やコーチに認められて出場のチャンスをもらえないと選手としての価値は無いに等しいことになる…。
 おれがそんな想像をしていたら大木さんがその裏打ちすることを呟いた。
「自分がやろうとしている研究が認められないと金は提供されない。けど、金がないと研究が捗らない。それに研究も流行りによって評価が高くなったり低くなったりする。運良く研究が認められたら良いんだけどなぁ」
 大木さんは言葉の最後をわざとらしく明るい声で締めくくった。そんな大木さんが語る世界は今まで考えたことも意識したこともなかった。それなのにおれには他人事に聞こえなかった。と同時に頭のどこかに刷り込まれたような気がした。


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